捜しものは何ですか?

結城 いづみ
(横浜上野町教会牧師夫人)
多忙な夫を支えるかたわら、各地で講演活動を行う。著書に「春を待つ心」等がある

人生の忘れもの

 三十代はまあまあなんとか。四十代はそれでもなんとか。 五十代の私は、とんでもハップンです。ほんとうにどうしよう もありません。眼鏡でしょう?時計でしょう!お財布に鍵でしょ う!出掛けに当たって、これで三、四回は玄関を出たり入った りです。ハンドルを握ったまま、待ちぼうけにあっている夫こ そいい迷惑。「まあいいさ、人生の忘れものをしなかっただけ でも。」と言ってくれます。「なるほど、人生にも、落としもの や忘れもの、捜しものがあるのか。」と、思いました。

ぜいたくな悩みでしょうか

 井上靖の小説「憂愁平野」の主人公が、ゆきずりに車に乗せ た若い女性からこんな話を聞かされる場面があります。「結 婚をして一年もすると、女は赤ちゃんを産むでしょう?そして その後は、その赤ちゃんにかかりきりですわ。赤ちゃんを大き くすると、全情熱を傾け、それから小学校へあげ、PTAに出、 そしてしばらくすると入学試験で苦労し、そのうちに歳をとり、 しわができ、そして退職金で家を建て、そして女の一生は終っ てしまいます。」ある方が、「これは女性たちが人生の途上の どこかの地点で必ず感じる、ある悲しい感慨ではないか。」と 言っていますが、ほんとうにそうですね。日々の暮しが安泰な ればこそ、こんなセリフも言えるとすれば、「何をぜいたくな」 と言われてしまいそうですし、「女の一生なんて、こんなもの」 とあきらめなくてはいけないのでしょう。

空しさの理由

 でもやっぱり…。「このままでいいのか」という心の問いか けは、主婦である私たちの心の底流に、いつも密やかに流れ続 けていくようにも思われます。ですからこそ女性たちは、いつ も夢中になれるものを捜しているのでしょう。仕事に趣昧に おしゃれに旅行。スポ−ツやショッピングに食べ歩き……など など。それもこれも、結婚生活への漠然とした不安と焦燥と 退屈とに格闘するようにして、といったら言い過ぎになるでし ょうか?  でもこんなに一生懸命に生きて、なぜ満たされないものが残 るのか、不思議といえば不思議です。捜し方が悪いのでしょう か…。

捜しものの主人公は

 聖書の中に、ほうきを持って捜しものをしている女性の記 事が出てきます。「女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一 枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念 入りに捜さないでしょうか。」彼女があと九枚あるからいいわ、 といって捜さなければ、なくした銀貨は、ホコリをかぶったま まになって、一枚分の価値さえなきものになってしまいます。捜 すって、なんて大切なことでしょう。見つけ出されるって、なん て幸せなことでしょう。  でも、このホコリまみれの一枚の銀貨、まるで「私」という存 在のよう、とある時ふと思ったのです。それまでは、あかりを つけて捜している女の人をわたくしだと思っていたのですけ れど。びっくりです!「私」捜しの主人公は、私自身なのでは なくて、「私」の真の持ち主であったというのですから。

名前を呼んで下さる神

 「名前を呼ばれて人は創られていく」という言葉がありま すが、私たちはどうなのでしょうね。結婚をしてからというも の、「オイ」とか「お母さん」とか「奥さん」とか呼ばれている うちに、いつしか名前を持たない存在のようになって、部屋の 片隅みに置き忘れられたあの銀貨のように、自分自身を見失なっ てきた…とは言えないでしょうか。  生活の中、すっかりくすんでしまった私に、「あなたはあな た自身でありなさい」と私の名を呼び続けていてくださるお 方が、実はいらっしゃるのです。天にましますわれらの父、神が そのお方です。「わたしはあなたを、あなたの名で呼ぶ。あな たがわたしを知らなくても…」と呼びかけ、「わたしの目には、 あなたは高価で尊い。」(旧約聖書)とまで言ってくださり、つ いには、この「私」の真の尋ね人としてイエス・キリストをこの 地上に遣わしてくださいました。「人の子は、失なわれた人を 捜して救うためにきたのです。」(新約聖書)と主イエスご自 身もおっしゃいます。私たちはこの方によって、長い間積ったほ こりを払われ、磨いていただいて、私らしく輝いて生きること ができるのです。  教会は、私を捜し、価値あるものとしてくださる神の愛が、 聖書に照らして語られ、伝えられていく所です。あなたも おいでになって、自分捜しをなさいませんか。思いがけない 宝としての人生が、きっと見つかるはずですから。

/カリスとは、ギリシャ語で「恵み」と言う意味です。  

発行:日本同盟基督教団伝道部 


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