Welcome Guest 
災害関連情報
ニュース
ご案内
教団各種資料
教団関係者用メニュー
投稿者 : doumei 投稿日時: 2017-06-02 11:29:13 (86 ヒット)

教団信仰告白の解説 その11 

我らは信じ、告白する

徳丸町キリスト教会 牧師 朝岡 勝

 信仰告白第6項、聖霊についての告白の中段部分を取り上げます。

 「人は、自分の行いによらず神の恵みにより、主イエス・キリストの贖いのゆえに、キリストを信じるただその信仰によって義と認められる。」

  聖霊の中心的な働き

 信仰告白第6項は三位一体の第三位格である聖霊についての告白で、内容から前段、中段、後段に分けられます。前回(2016年2月号)取り上げた前段では、聖霊のおもな働きを「救いを届ける働き」であると言いました。今回取り上げる中段部分では、その救いの働きの中心、教理の言葉で「信仰義認」が扱われます。

 ちょうど今年は宗教改革5 0 0 年記念の年です。1517年10月31日、ウィッテンベルクの城教会の掲示板に一介の修道士であったルターが、贖宥状販売の聖書的な根拠を問うための公開討論を呼びかける文書(95箇条の提題)を貼り出したことを端緒として始まった宗教改革運動の最重要テーマが信仰義認の問題でした。人はどのように神の御前に義とされるのか。この問いに取り組み続けたルターの「福音の発見」こそが、神の法廷での義の宣告を受け入れるという恵みの事実だったのです。

  自分の行いによらず 神の恵みにより

 信仰義認の教えは、プロテスタント教会が「立ちもし、倒れもする条項」とまで言われた中心教理であり、教団信仰告白が前文において「宗教改革において鮮明にされた信仰」と呼ぶのは、まさに「自分の行いによらず神の恵みにより…ただ信仰によって義と認められる」とする部分です。しかしこれはそもそも聖書が明確に語っている教えです。

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3章23〜24節)、「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と求められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」(ガラテヤ2章16節)、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2章8〜9節)と言われるとおりです。

 キリストの贖いのゆえに

 救いにおける神の恵みが意味するところを言い表すのが、続く「主イエス・キリストの贖いゆえに、キリストを信じるただその信仰によって」ということです。キリストこそが私たちの「義と聖めと、贖い」(汽灰螢鵐硲云30節)であり、キリストが十字架の贖いによって勝ち取ってくださった義が、聖霊によって私たちにもたらされ、私たちは神の御前に罪あるものでありながら、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人」(エペソ4章24節)という衣を着せていただいて、神の御前に義と認められたのです。

 これは決して揺らぐことのない神の確かな決定であり、キリストがその確かさの根拠です。私の側にある何ものかによって左右されるものでなく、三位一体の神の主権的で自由な恵みによるものです。この恵みへの応答が、「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すために」(汽灰螢鵐10章31節)という私たちの人生なのです。

 


投稿者 : doumei 投稿日時: 2017-06-02 11:14:09 (68 ヒット)

教団ニュース 

《教団カレンダー》

6月4日㈰ 国外宣教デー

7月9日㈰ バイブルキャンプデー

《会 議》

◇理事会

6月12日㈪ 教団事務所

7月3日㈪ 教団事務所

《訃 報》謹んでお知らせいたします。

◇引退教師の北條和人師は、4月20日㈭に召されました。78才でした。

◇故若狭正一師の奥さま、若狭喜美子師は、4月24日㈪に召されました。93才でした。


投稿者 : doumei 投稿日時: 2017-06-02 10:26:25 (62 ヒット)

理事の声 わたしの証人となります

理事 入江 喜久雄(福岡めぐみ教会牧師)

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1章8節)

  弱い弟子たち

 使徒の働きは数々の宣教を時間の流れに従って記すというのではなく、福音がエルサレムからローマ帝国へ、確実に末広がりに進展していった歴史を語っています。それは当時、主が弟子たちに「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」(使徒1章5節b)と聖霊降臨を約束されたからです。しかし、弟子たちは聖霊を待ち望むより「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」と主ご自身に政治的、民族的な救い主を期待し、一刻も早く、ローマ帝国の支配からの解放をと願いました。その問いに主は「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」と答えられました。弟子たちの心には、自分たちは弱く何もできない、主だけに働いていただこうとの考えがあったからでした。

 あなたがたは力を受けます

 しかし、主はそのような弟子たちに「聖霊があなたがたの上に臨まれる」と言われ、弟子たちこそ、聖霊を受けて福音宣教に用いられる者たちなのだと力づけました。彼らは明確なキリスト信仰がありませんでしたが、主は「あなたがたは力を受けます。」と約束されました。具体的に「力を受ける」とは、どのような内容だったのでしょうか。

 「わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル2章28節)とあるように、聖霊が注がれるとみことばを語る人となるということです。実際、迫害下で「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた」(使徒8章4〜5節)のです。また、「パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った」(使徒14章19〜20節)とあります。半死半生のパウロはなぜ、立ち上がることができたのでしょうか。それは復活の主が彼と共におられたからです。これらから「力を受ける」とは、復活の主がともにおられ、宣教に進むという事ではないでしょうか。

 わたしの証人となります

 復活の主がおられるので、聖霊が臨み、弟子たちはキリストの証人となりました。どこに於いてでしょうか。.┘襯汽譽燹そこはキリストを十字架につけた人々、心のかたくなな人々、弟子にとっては主を否定した所です。▲罐瀬篩甘據それはイエスさまを救い主キリストと認めない人々が大勢いるところです。サマリヤ。それは偶像崇拝をしている人々が大勢いる所です。いよび地の果て。そこはギリシヤ文化、哲学者、無神論者が大勢いる所、強大なローマ帝国です。そのような地で、あなたがたは「わたしの証人(キリストの復活の目撃証人、殉教者、イザヤ43章10節)となります」(使徒1章8節)と主は約束されたのです。

 聖霊なる神さまが来られたのは、力なき弟子たちに力を与え、宣教が困難なエルサレムから地の果てまで、キリストの証人とするためでした。弟子たちはみことばに従ってエルサレムに留まり「みな心を合わせ、祈りに専念し」(使徒1章14節)、たのです。すると聖霊が臨まれ、世界宣教を行う者となったのです。私たちもみことばと祈りによって、主に従い、聖霊に満たされ福音宣教を進めてまいりましょう。


投稿者 : doumei 投稿日時: 2017-05-08 16:28:01 (188 ヒット)

総主事就任 

宣教の労苦と喜びを共有したい

新総主事 宗田 信一

 このたび第68回教団総会において教団総主事に選ばれた宗田信一です。私は、岡山県倉敷市に生まれ育ち、他教団の教会で洗礼を受け、就職で移り住んだ広島市内の戸坂聖書教会に通い始めて転入会へ導かれて、同盟教団に属するようになりました。その後、広島で結婚へ導かれ、5年間働いた会社を辞めて東京基督神学校で3年間学び、同盟教団の教師に任じられました。そして、高崎福音キリスト教会において、人の欠けと弱さを覆ってくださる主の恵みによって、12年間みことばの務めに仕えることができました。若い牧師のために毎週祈ってくださった高崎福音キリスト教会の兄弟姉妹、研修会や教師会や学び会で研鑽の場を設けてくださった教師の方々、また神学校時代から私のために祈り、温かい励ましのことばを語り、助けてくださった先生方に囲まれて幸いでした。

 これまで高崎福音キリスト教会で仕えるとともに、教団の教憲教規機構改革委員会と東日本大震災復興支援本部( その後、東北宣教プロジェクト) でも微力ながら仕えさせていただきました。同盟教団で長年にわたり祈り求められてきた宣教の新しい革袋が整えられ、大規模な自然災害と原発事故に見舞われた時代の中で、地域教会がその真価を問われています。福音の光を拒む時代の闇は深まるばかりのように見えます。しかし、このような時代は、御国の到来に向けて宣教協力する私たちの教会、教団にとって働き甲斐のある時代と思います。キリストの血によって隔ての壁を打ち壊され、その肉によって敵意を廃棄され一つにされた有機的生命体として互いに熱心に愛し合い、宣教の労苦と喜びを共有できれば誠に幸いです。

 この者も、みことばの約束を信頼し、キリストのからだの部分として、神を愛するために仕えていきたく願っています。今後とも、教団総主事の務めのためにお祈りください。


投稿者 : doumei 投稿日時: 2017-05-08 16:24:51 (131 ヒット)

総主事退任 

機構改革決議後の4年間

前総主事 山村 諭(茅ヶ崎同盟教会牧師)

 2013年3月、教憲教規変更により機構改革を決議した節目の教団総会において、総主事に選任されました。理事会に関わる調査、報告、執行業務、そして事務所の統括という働きを通して、福音と諸教会に仕える務めを担わせていただきました。諸教会の皆さまのお祈りとお支えあっての働きであったことを思い、心から感謝いたします。

 この4年間、時代状況も大きく動きましたが、教団内外も新しい局面を迎えつつあることを実感しています。理事会審議事項を取りまとめていて、最近の顕著な傾向として見られたのは、相次ぐ引退宣教師の召天と、諸教会の不動産案件の増加です。戦後、各地に教会を生み出した多くの宣教師が、地上の生涯を終えて主のみもとに召されて行きました。時期を同じくして会堂の老朽化や新しい展開のために、用地取得や会堂建替えの事業に取り組む諸教会が続いています。

 教団も新しい皮袋を備えて、変化しつつ歩むことを求められて来たように思います。従前の方針、方式を踏襲するだけでは対処できない事態、時代に即した対応、新しい可能性を拓く取り組みが求められて来たように思います。人口減少、少子高齢化、国家主義の台頭という時代状況の中で、宣教協力の教団として、どうすればより良い協力と連携を生み出せるのか。教師も信徒も活かされ、堅く信仰に立って、持続的に福音のために力を尽くすためにはどうすべきか、知恵を出し合うことが鍵だと思います。

 理事として立てられた先生方の仕事ぶりには教えられることばかりでした。牧会しつつ、教団運営と諸教会のために骨折るその仕事ぶりに教えられること多く、「贖罪的生き方」のお手本を示していただきました。総主事として至らぬ点が多々ありましたこと主にあってお赦しください。皆さまからの激励やお叱り、労いや慰めの数々に心から感謝しつつ、いただいた経験を糧に、遣わされた地で伝道牧会に励みます。4年間ありがとうございました。


投稿者 : doumei 投稿日時: 2017-05-08 16:20:33 (90 ヒット)

平安があなたがたにあるように

副理事長 朝岡 勝(徳丸町キリスト教会牧師)

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」ヨハネ20章19〜21節

  主から与えられる平安

 十字架から三日が経った日曜日の夕方、弟子たちは恐れの中にいました。それは愛する師との別れ、明日からの自分たちの日々に対する不安、そして何よりも自分たち自身の死への恐れではなかったでしょうか。しかし恐れの中にいる彼らの真ん中に復活の主が姿を現して言われました。「平安があなたがたにあるように」。

 すでに14章25節以降、主イエスは御自身が地上を去って行かれた後のことを予告し、聖霊を遣わすとのお約束とともに「わたしはあなたがたに平安を与えます」と語られました。しかし十字架の死とよみがえりを経て再びこの言葉が語られる時、そこには死に打ち勝つまことの平安が現実となっているのです。

 弟子たちはこの約束をすでに受け取っていましたが、その言葉の現実味は伝わってはいなかったでしょう。しかし今は違います。十字架に死なれ、葬られ、三日目に復活された御方として彼らの真ん中に立たれるのです。そして死の手前の御方ではなく、死の向こう側に立たれる御方として、私たちにも「平安があるように」と語ってくださるのです。それは死への恐れを完全に打ち破る、いのちの主だけがくださる平安です。

  主を見て喜んだ

 復活の主イエスは弟子たちに「その手とわき腹を彼らに示され」、「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります(20節)。ここで深く心に留まるのは、よみがえられた主イエスのお体には十字架の傷跡があったという事実です。これは「からだのよみがえりを信ず」と告白する私たちの信仰とも深く関わる重要なことなのですが、ここでは教理的な説明というよりも、復活の主イエスが弟子たちの真ん中に立たれたお姿を思い巡らしたいのです。たった三日前の釘で打たれた手足、槍で刺された脇腹。肉は裂け、血がこびりつき、傷だらけのお姿であったに違いない。直視することもできないような痛々しいお姿だったに違いない。

 しかしそれは単に死の前のお姿ではない。よみがえられたお姿です。それが具体的にどこが同じでどこが違うのかを、私たちは今この箇所から知る術を持ちませんが、はっきりしている手がかりは、弟子たちがそのお姿を見て「喜んだ」とあるように、それは失意と絶望と恐れに捕らわれていた弟子たちを、完全にそこから解き放ち、喜びの中に迎え入れるほどのお姿であったということです。

  復活の主の傷跡

 私たちの人生には、隠しておきたい傷、消してしまいたい失敗、なかったことにしたい過ちや罪の傷跡があります。それらがいつも私たちを過去へと引き戻し、心を縛り付けます。けれども十字架に死なれ、墓の中から日曜の朝によみがえられた主イエスの手足には釘の跡が、脇腹には槍の刺し傷が残されていたことは慰めのしるしであり、また希望のしるしです。

 私たちの主イエスは私たちの傷跡もそのままに、私たちを新しい人として生かしてくださる。その時にはもはやその傷は私を傷つけることなく、復活の主イエスにあってどこからでもやりなおせるという恵みのしるし、どれほどの罪を負っていても赦されて生きられるという恵みのしるし、傷を負った者でも新しく生きられるという恵みのしるしとなるのです。


投稿者 : doumei 投稿日時: 2017-04-27 17:12:10 (396 ヒット)


(1) 2 3 4 ... 33 »
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

検索
日本同盟基督教団