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TOP : 平安があなたがたにあるように
投稿者 : doumei 投稿日時: 2017-05-08 16:20:33 (203 ヒット)

平安があなたがたにあるように

副理事長 朝岡 勝(徳丸町キリスト教会牧師)

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」ヨハネ20章19〜21節

  主から与えられる平安

 十字架から三日が経った日曜日の夕方、弟子たちは恐れの中にいました。それは愛する師との別れ、明日からの自分たちの日々に対する不安、そして何よりも自分たち自身の死への恐れではなかったでしょうか。しかし恐れの中にいる彼らの真ん中に復活の主が姿を現して言われました。「平安があなたがたにあるように」。

 すでに14章25節以降、主イエスは御自身が地上を去って行かれた後のことを予告し、聖霊を遣わすとのお約束とともに「わたしはあなたがたに平安を与えます」と語られました。しかし十字架の死とよみがえりを経て再びこの言葉が語られる時、そこには死に打ち勝つまことの平安が現実となっているのです。

 弟子たちはこの約束をすでに受け取っていましたが、その言葉の現実味は伝わってはいなかったでしょう。しかし今は違います。十字架に死なれ、葬られ、三日目に復活された御方として彼らの真ん中に立たれるのです。そして死の手前の御方ではなく、死の向こう側に立たれる御方として、私たちにも「平安があるように」と語ってくださるのです。それは死への恐れを完全に打ち破る、いのちの主だけがくださる平安です。

  主を見て喜んだ

 復活の主イエスは弟子たちに「その手とわき腹を彼らに示され」、「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります(20節)。ここで深く心に留まるのは、よみがえられた主イエスのお体には十字架の傷跡があったという事実です。これは「からだのよみがえりを信ず」と告白する私たちの信仰とも深く関わる重要なことなのですが、ここでは教理的な説明というよりも、復活の主イエスが弟子たちの真ん中に立たれたお姿を思い巡らしたいのです。たった三日前の釘で打たれた手足、槍で刺された脇腹。肉は裂け、血がこびりつき、傷だらけのお姿であったに違いない。直視することもできないような痛々しいお姿だったに違いない。

 しかしそれは単に死の前のお姿ではない。よみがえられたお姿です。それが具体的にどこが同じでどこが違うのかを、私たちは今この箇所から知る術を持ちませんが、はっきりしている手がかりは、弟子たちがそのお姿を見て「喜んだ」とあるように、それは失意と絶望と恐れに捕らわれていた弟子たちを、完全にそこから解き放ち、喜びの中に迎え入れるほどのお姿であったということです。

  復活の主の傷跡

 私たちの人生には、隠しておきたい傷、消してしまいたい失敗、なかったことにしたい過ちや罪の傷跡があります。それらがいつも私たちを過去へと引き戻し、心を縛り付けます。けれども十字架に死なれ、墓の中から日曜の朝によみがえられた主イエスの手足には釘の跡が、脇腹には槍の刺し傷が残されていたことは慰めのしるしであり、また希望のしるしです。

 私たちの主イエスは私たちの傷跡もそのままに、私たちを新しい人として生かしてくださる。その時にはもはやその傷は私を傷つけることなく、復活の主イエスにあってどこからでもやりなおせるという恵みのしるし、どれほどの罪を負っていても赦されて生きられるという恵みのしるし、傷を負った者でも新しく生きられるという恵みのしるしとなるのです。


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