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TOP : 神の作品として
投稿者 : doumei 投稿日時: 2018-06-13 15:37:00 (105 ヒット)

神の作品として

理事 水草 修司(苫小牧福音教会)

「実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。」汽灰螢鵐12章14節

 原稿を書いている今は五月一日。春がおそい北海道苫小牧でも、桜がぽつりぽつりと咲き始めた。北大の苫小牧演習林での散歩が楽しみになる。春の野を歩けば、フクジュソウ、オオイヌノフグリ、タンポポ、ホトケノザ、スズラン、エゾカンゾウ・・・とさまざまな野の花を見ることができる。多くの人は北海道といえば地平線までトウモロコシ畑などという風景を思い描くかもしれないが、それは人工的に作り出された風景であって、神の創造のわざは実に多様なのである。神の作品は、多様であって、しかも不思議に調和している。

 キリストの教会は神の作品であるから、そこには豊かな多様性と、うるわしい一致が保たれるべきである。「うるわしい」とは誠実な美を意味していて、「うるわしい友情」などと使う。「たとい、足が、『私は手ではないから、からだに属さない』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、『私は目ではないから、からだに属さない』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。」(汽灰螢鵐12章15〜18節)

 もう三十年以上も前、伊豆天城山荘の教団総会の時、私は補教師試験の理事会面接を受けた。そのときY先生があのギョロリとした目でこちらを見て質問なさった。「なぜ日本同盟基督教団に骨を埋める覚悟をしたのかね?」恐らく私の履歴書に、受洗したのは故郷神戸の他派の教会で、その後、同盟基督教団の教会に転じたことが記されていたからであろう。言外に「腰かけのようなつもりで同盟教団の牧師になってはいけないぞ。」という念押しが含まれていた。私の答えは、「同盟教団は福音の十分伝えられていない地方に宣教することを大事にしているからです。」ということと、「視野が狭くなりがちな私のような者は、同盟教団にはさまざまな先生方がいらっしゃるので、多くを学ばせていただけると思いました。」ということの二点であった。

 今日にいたるまで、私は同盟基督教団の生命線の一つは、その多様性であると信じている。その理由は、多くの教会がTEAM という超教派宣教団によって生まれたこと、簡易信条主義であるので加入しやすい印象があること(実はそれほど簡単ではない)、そして出身神学校が多様であることなどであろう。最後の点について言えば、同盟基督教団の教職者たちの出身校は、「キリスト教世界観」を掲げる神学校、原典釈義に徹する神学校、地方伝道に使命感を持つ神学校、教義学を強調する神学校、若い教師候補者を育てる神学校、壮年で召しを受けた者が学べる神学校などさまざまである。さらに、祈りに徹する神学校、伝道一本槍の神学校もあればと思う。どの神学校も聖書信仰に立ちつつ、独自の理念をもって神学教育をしている。もっとも、多様であればあるほど、一致点を明瞭に自覚しておくことが大切である。同盟基督教団における一致点とは、「聖書信仰・宣教協力・合議制」すなわち、〈聖書信仰という揺るがぬ土台に立ち、福音宣教において協力するために、合議制という教団政治を行う〉ことである。私たちの教団は神の作品である。豊かな多様性とうるわしい一致をもって、互いを尊敬し合いながら、「よくやった。良い忠実なしもべよ。」とお言葉をいただく日を待望しつつ、福音宣教のために共に働いて行きたい。


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