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TOP : 理事の声 嘆き、悲しみ、泣く道
投稿者 : doumei 投稿日時: 2018-08-16 14:10:18 (161 ヒット)

理事の声 

嘆き、悲しみ、泣く道

理事 藤田 敦(北総大地キリスト教会牧師)

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。ヤコブ4章8〜10節

 「教会と国家」の在り方を問われる8月。特に今年は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録された。禁教が解かれた後に建てられた犇飢餬〞の価値ではない。価値の中心が犇惷気斑動気紡僂抜いた信仰そのものにある〞とされた潜伏キリシタン関連遺産だ。

 「心より、踏めとは言うとらぬ。こげんものはただ形だけのことゆえ、足かけ申したとてお前らの信心には傷はつくまい」(遠藤周作『沈黙』)。心からではなく形だけと迫る役人を前に絵踏みを拒み、幕府からの壮絶な迫害を甘受した人々。クニが心に介入することを、デウスへの信仰から拒んだのだ。

 一つの手紙を紹介したい。修学旅行を抜けて主日礼拝に行く子について、教会員が記したものだ。

 「校長先生。先日、担任の先生に修学旅行最終日に娘が礼拝に行くことに関してお手紙を出しました。担任からはお電話をいただき、娘にもお話しくださったそうです。お電話でも違和感を覚えましたが、娘から話を聞いて腹立たしく感じています。

 まず、『礼拝に行くことを許可したのは校長先生の特別な配慮だから、あなたはラッキーです』と言われたそうです。しかしお手紙でも申しあげたとおり、日本国憲法第11条『国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない』、第20条『信教の自由は、何人に対してもこれを保証する』とあります。そもそも礼拝に行く行為は個人の持つ権利であって、先生に許可を求めるものではないと考えます。ですから、『行きます』という意志をお伝えし、『配慮を求めます』としました。許可があっても無くても行くという問題であると考えます。…なお、『何かあった場合に責任が取れない』と言われましたが、礼拝の時間に関しては学校側に責任を求める問題ではありません。」

 世との接点として憲法で論じてはいるが、信仰に立つ要点は「許可があっても無くても行くという問題であると考えます」だろう。

 説教で私は常々こう語ってきた。「同化を和とする文化の下では唯一神への信仰が尊重されず、自分の信仰を主張することはわがままとされてきた。キリスト者の間でさえ、『そこまでやらなくても』との声が響くことがある。それでも爽やかに主を礼拝して生きるためには、嘆き悲しむ道を選ぶ覚悟が必要だ」と。

 教団は昨年『今日の政治状況に対する私たちの声明』を出した。「立憲民主主義を尊重する」「かつて…偶像礼拝の罪を犯し…侵略戦争に加担した罪を告白する」「それゆえに平和主義と基本的人権を尊重する」とある。これらを絵空事とせず実際に取り組むならば、たとえば手紙のような闘いが起こるのではないだろうか。

 「二心」でない学校生活を求めて息子が問うたことがある。「どうしてこんな苦しい思いをしなくてはならないの?」こう答えた。「ごめんな。大人の責任だよな。お父さんが信仰を持ってからでも30年。もしお父さんを含めキリスト者が本気になってこの問題に向かっていれば、こんな風ではなかったと思う。でも残念だけど、闘う人は少ないんだよ。」

 高札撤去後の黙認、三教合同、皇民化、敗戦…そして今へ。人目を気にして衝突を避け、信仰は自由だと勘違いしていたのではないだろうか。キリシタンが神への一つ心に立ち続けたように、神の民として「笑いを悲しみに、喜びを憂いに変え、主の御前でへりくだる」。それを選ぶ信仰を育みたい。


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